信じるっていう事は僕にとってはとっても原始的な事なんじゃないかって思っている。
信じている事は信じていなければ信じる事はできないんじゃないかとも思っている。
それこそが信じるという事だと僕は思っている。

だから信じていない人に信じている話をするときはいきなりその話からいった方がいいんじゃないかって思うんすよ。ええ。
だって信じていない人は信じていないから信じていない訳だから。うん。
そこに「大断絶」は当然存在するってことを自覚しないとどうにもならないかもしれない。
あといい大人なんだから声明をはっきりとして態度を明確にしていかないと失礼だ。とっても。
相手があっての自分だし。
他人とは自分であるし、逆もまた然りであるし。

日本という国において希薄感びしびしの信仰という
精神的な土台。
あるひとはすがりながら生きているんだろうし。
路面店舗で販売なんかやっていると、
宗教勧誘の人なんかが懸命さと必死さとどことなく浮世離れした笑みなんかで来る。
全部なんか悪いんだけど帰って頂いているけど。

勧誘なら勧誘ですというはっきりとした態度で臨むべきであろう。
そこにけれんみのない大人同士の対話がなければ成立しないかもしんない。
断る事も受け入れる事も僕はイーブンであると思うし。
受け入れる事が100パーセントの解放に繋がるのか?
僕はそうは思わない。
それはエントランスであってそこからは自分の判断で進めばいい問題だから。
嫌ならやんなきゃいいだけで、
それが大断絶へのプロローグにするのもいかがなもんかと思う。
拒否する事によって保ちたいプライドなんかも人によってはあるだろうし。
そんなの客でたくさん来るから。
客の「拒否」には従順でしか応えないようにしている。
礼儀を知らない、商品を粗雑に扱うなどのむかつく客は無視と、否定で追いかえすけど。
逆に必要以上にアクセプトしていいのよなんかいうのも気持ち悪いし。
わかってないんじゃねえの感がたっぷりしてたりもするし。

いずれにしてもイーブンな関係が構築できないまま話が進むのは好ましくないだろうと経験的に思う。
そうしないと、相手は必要以上に憤慨するし。
ある意味単なる遮断したかったの?状態になるし。
相手はその「根拠のない自信」を自身の心の陥穽をうがちたいだけなのでは、
としか思ってくれないはず。
もしくは勧誘の人の言葉に必死さがないのかもしんないし。
やるきもねえくせにいってくんじゃねえよっつうの。とか。

宗教がこれだけあふれていて電車で毒を撒く破壊集団が、いまだに存在し支持をえている日本。
正月は神社にいき、年末をキリスト教の行事にのめり込んで、
死ぬときは寺で読経されつつ灰になる。
墓地は宗派は問いません。
僕は死んだら焼いてちいさくしてゴミと一緒に捨てるように遺書に書こう。
僕は僕自身を信じている。
生命と宇宙と海とか血液とかを信じている。
なんもかんもが信じられなかったときもあった。
10年くらい前だけんど、
最後に自分を否定したとき、気が狂う寸前だったことを思い出しちゃった。
あんな思いはもうたくさん。
ぞっとする。

僕の中にあるニューロンを。
そのナノレベルで活動する僕のシナプスを。
プリミティブに信じる。
その微細電流の火花が生命の活動であることを。
時間軸におけるDNAレベルでの歴史が僕に流れている事を。
僕は何となく、だがかなり強固に信じている。

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